「やまゆり94号」が発行されました

貧しい人は幸い

     健軍教会 渡辺 隆義 主任司祭
久しぶりにミサの時に子どもたちの姿を見、声を聞くことができるようになり、ホッとした気持ちです。同時に、この子どもたちが今の私たちの歳になったとき、この世界は、教会はどうなっているのだろうか。より良い世界になっているだろうか、一抹の不安が脳裏をよぎります。
ルドルフ・イェーリン
「シュヴァルツバルトの山上の説教」
「人々の生活が豊かになれば社会や世界の争いごとはなくなる」「政治体制が変われば人々は幸せになる」と言う人がいます。でも、本当のところは「人間に欲望・執着がある限り」争いは続くのではないかと思います。イエスが約束された平和は、裕福になることによってではなく、権力を握ることによってでもなく、多額の献金・寄付をすることによってでもなく、むしろ様々な“欲”から解放されることで可能になるのではないでしょうか。キリスト教の役割は案外そんなところにもあるような気がします。
戦後すぐの「団塊の世代」と呼ばれる人々の一人として、自分の子ども時代のことを青少年の皆さんに語ることがあります。
「貧しい人は幸い」「金持ちは不幸だ」とイエスは言われました(ルカ6:20-25)。生活にゆとりができた今やっと、貧しいことが必ずしも不幸ではないということを実感するようになりました。今より貧しかった子ども時代に教会はいつも身近にありました。大人も子どもも一緒にワイワイガヤガヤ騒いだことがつい昨日のことのようです。祈りの時間は今よりもちゃんと確保されていました。
自分の無力さを知り、神を素朴に信頼していたので気楽だったのに、今は自分でなんとかしなければとあせってしまいます。
イエスが言われる「貧しさ」とは貧困のことではない。だってイエスも弟子たちも貧困ではなかったようですから。望ましい貧しさとはどんなものなのだろう。それは、「持っていても持っていないかのように質素に生き、自分よりもっと貧しい人たちに手を差し伸べることができるように少しばかりの余裕があること」ではないかと思うこの頃です。

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